自己紹介

はじめまして。

40代2人の子持ちのサラリーマンです。会社員の傍ら、ブログを作成してます。

NFT,仮想通貨を中心とした情報発信をしています。

自分が触って試している仮想通貨取引所、NFT、WEB3,DAOなど、ブログを通して、皆様の生活に潤いがでてくればと考えてます。

私はブログ作成をしたきっかけと今後目指していきたいライフプランを知って頂きたいので、私の生い立ちから現在についてお話させて頂きます。

誕生から学生時代

私は、普通のサラリーマンの家庭に育ち、兄が一人います。東京でもありふれた家族といったところで、これといった特徴はとくにありません。

父は、高校在籍時からアルバイトをしてお金を稼ぎながら、大学に行かず働きにでた苦労人だと思います。4人兄弟の2番目で、下の弟たちのために自分は大学には行けなかったようです。祖父もあまり仕事をせず、祖母が家族を養っていたと聞いています。

母は、3人姉妹の真ん中で、頭がよく、大学も卒業して某大手自動車メーカーに就職をしています。父と出会い、家庭に入ってからは、家計のため、生活のためにパート勤務をしながら僕たちの兄弟を養ってくれました。私は、母のために何かできないかと、お手伝いはよくしていました。内職のお手伝いもしました。これは、やった分お金がもらえたからですけど。

身体に特に問題になる点はなく、ただ風邪はよく引き、家族にうつして治している子供でした。

私自身、ごく平凡な生活を送っており、幼稚園こそ私立に通っていました(これは、抽選があって公立に入れなかったからと後になってききました)が、小学校も公立にいきました。

元々あまり記憶していないことが多く、どこかにつれていってもらっても覚えていないのですが、小学校のたしか3.4年生ごろ、自分である程度ことができるようになってきたころ、家庭が荒れ始めました。

父親がいつのころからか、朝に帰ってくるようになりました。

はじめのころは気にもとめていなかったのですが、夫婦喧嘩を聞くようになりました。土日もたまに父親は朝からいなくなり、夕飯ごろに帰ってくるようになりました。

いわゆるギャンブル依存症ってやつになっていたようで、平日は会社帰りにどこかで遊んでいて、土日はパチンコという生活を送っていました。

母親は、生活のためにパートに働きにでるようになり、僕ら兄弟もなんとなく察して家の手伝いをするようになりました。

お金について考えはじめたのもこの頃です。

お金が全てではない、それは当然分かっていますが、お金で解決できることもたくさんあるということも事実だと思います。

そんなこともあり、将来は社長になりたいなあとぼんやり思うようになりました。

小学校から次はそのまま公立の中学校にあがりました。

自分自身は、勉強はほとんどできず、運動はそこそこやれる、まあ人並み以上に運動神経はありました。

中学校はどこかの部活動に所属しなくてはいけなかったので、バレーボール部に入りました。

理由は、元々母親がやっていて自分もそこまで下手ではなかったことと、サッカー部やバスケットボール部はなんだか定番すぎて、自分ではなくてもいいかあと思ったからです。

文化部的なものもありましたが、当時は運動だけは少し自信もあったのであまり深く考えず選んだ形です。

ただ、その部活動は引率教員がかなり怖いかつスパルタでした。今思えば、昭和感丸出し、厳しく指導するとチームが強くなるという考えを持っていた方だったので、部活中基本的には水は飲ませない、ぶっ倒れる寸前まで追い込む指導を続けていました。部員はみんな必死だったので、ほとんど先輩からも目をかけてもらうこともなく、同級生とも馴染めない状況も続いていたので、ほどなくして部活動はやめました。

まあ、私自身我慢強くなかったというのも理由としてはあります。

次に入ったのは水泳部、そして最後に陸上部と部活動はろくに長続きしない状況でした。

部活動はやらずに、家に帰ってゲームをずっとしていたかった。強制だから、とりあえずどこかに籍をおいていたというのが本音です。

勉強もいまいちでしたが、いよいよ高校については受験をしなくてはいけなくなります。

私立ではなく公立ですが、内申点と試験結果によって、行ける高校が変わり、しかもうちの場合には、

私立を選ぶことは許されませんでした。金銭的な余裕がなかったからです。

そのため、流石に勉強にも取り組み始めて、運よく中学生2年生の担任の先生との相性が良かったので、勉強についてもやる気が出て自発的にやるようになっていました。

そこからは、今まで勉強をしていなかったこともあり、どんどん吸収していって、成績もどんどん良くなっていきました。5段階評価でいうと、ほとんどの教科が4以上でしたので、高校も上位校を選択しました。

とはいえ、試験は1回勝負なので、かなり緊張はしましたが、無事に合格することができました。

高校に入ると、色んな中学校から色んな生徒がきていて、しかも頭もみんな同じくらいなので、自分はどうかなあと思っていました。

ただ、落ちこぼれることもなく高校生活も比較的楽しく毎日を過ごしました。

部活についても強制ではないので、学校帰りに遊びにいったり、渋谷表参道など繫華街にも行って、よくわからず裏原宿なんかにも行ってみたりしてました。

高校に入るころには身体も出来上がり、ある程度自分でなんでもできるようになってからは、相変わらず家の状況はよくはなかったと思いますが、以前に比べるとギャンブルに行く頻度は少なくなっていったようです。とはいえ、親子関係がそれで良くなるわけでもないので、ほぼ口を聞いてなかったと思います。

私自身は高校3年次、当時何故か理系に進んで勉強したいと思い、理数系での受験に臨むことにしていました。ただ元来理数系は苦手で、そこまで勉強もしていなかったので受験に失敗しました。

浪人生活を送らせてもらい、そこから文転をして勉強を1日のほとんど行う生活を続けて、なんとか大学にも合格ができました。

合格後の大学生活については、まあ勉強ですべてを使い果たした疲れを癒すように、友達と飲みに行ったり、遊んだり、特に目的もなく、ただ当時の私にとってはとても充実した毎日を送っていました。

この頃の自分は、将来に何か備えようということより、毎日をとにかく楽しく過ごす、そこにつきます。この時の経験は、今の自分を作っています。

大学1年の時に初めて海外に行きました。1月ちかく生活をして、一緒に生活をする人たち、目に見えるものすべてが本当に輝いてみえてました。今までで味わったことがないくらい、充実した毎日でずっとこの生活が続けばいいなあと感じていたくらい、素晴らしい経験、体験でした。

そのせいなのか、帰国後燃え尽き症候群のような状況になってしまいました。何もやる気がなくなってしまい、家に中でずっとDVDをみて生活をして過ごしていました。それほどに充実をしていたということにほかならないので、時間経過とともに気力ややる気も戻ってくることができました。

大学2年の時にも同じく海外にいきました。ただ、人間2度目にもなると、慣れがでてくるのと、体験についても1年の時と同じ感情にまで高まることはなく、ある意味冷静に過ごすことができました。

恋愛についてもこの頃に経験をしました。

女性と付き合いをすることで、人間がもつ、感情、喜怒哀楽がとても豊かになりました。

付き合った方、付き合ってはいないけど関わり合いをもった女性の方からは、多くの経験をさせてもらいました。

社会人から今日まで

私は40代。就職については、氷河期と言われる時代でした。

とはいえ、就職活動について実はそこまで深く悩んではいませんでした。

まあどうにかなるだろうと、そんな風に考えていました。

今思えば、あまり深く考えもなく希望の企業を選択していたなあと思います。

私自身に強くあるのは、とにかく家がお金に困っていたこと、貧乏であったことが強く強く心に刻まれていたため、おぼろげに金融を志望していました。

また今思えば、何を考えているんだろうという希望企業の選択ですが、

お金に困っている人を助けたい、だからそんな人を助けることができる企業、融資業務をできる企業に行こう、というなんとも考えが薄っぺらい思考回路で企業の選択を行っていました。

なので、銀行もそうですが、半官半民のところを主に希望していました。

半官半民って響というか、だれかに話をしたとき聞こえがいいように聞こえるかなとか、

そういう第三者の目線を気にしていました。

それと初任給の高さで消費者金融も1社受けました。結果、その会社に行くことになります。

自分で決めて面接をうけて、内定をもらい、そこに行くことになるのですが、今思えば、自分は何をやっているんだと思います。

というのも、自分の父親はギャンブルでお金を使い果たし、そのお金を消費者金融から借りていたと思います。その企業に自分が入る。親はどんな気持ちだっただろうなと。